先ほど投稿したこちらの動画の真面目な話パート(4:54~)の原稿を掲載します。
導入
ここからは、ちょっと真面目な話をします。ストーリーのネタバレを含みますので、ご注意ください。
テーマは、伏見臣の「役」の変化についてです。伏見臣は、これまでたくさんの公演に出演し、さまざまな役を演じてきました。その中でも、主演を務めた「異邦人」と「異世界歓迎!元ヤン食堂」は、伏見臣に大きな変化をもたらしました。この変化を辿るため、まずは伏見臣に初めて与えられた役から振り返ってみましょう。
秋組の旗揚げ公演「なんて素敵にピカレスク」では、普段の穏やかさからは想像のつかない悪徳警官デューイを演じました。伏見臣は、太一や左京さんのように演技の経験があったわけではありません。十座のように長い間演技に関心を持っていたわけでもないですし、万里ほどスーパーウルトライージーモードなタイプでもありません。しかし、秋組の中で最も本人からかけ離れているといっても過言ではない役を演じきりました。
私はこの理由を、伏見臣の持つ「規範意識」にあると考えました。規範意識とは、言い換えるなら、求められた「役割」を演じる力のことです。伏見臣は、母親を亡くしてからは理想の母親像を、ヴォルフを結成してからは家庭的な面を隠した「狂狼」を、那智が亡くなってからは暴力とは無縁の普通の学生を、那智の夢を知ってからは那智の代わりを、それぞれ演じ続けてきたのです。この性格は確実に、演技をするうえで生きたと言えるでしょう。むしろ、自分を隠しがちだった伏見臣にとっては、自分から離れている役のほうが好都合だったのかもしれません。
「異邦人」
しかし、第二回公演では、左京さんに弱点を見抜かれてしまいます。いつも自分ではなく他人を優先し、その人のために行動しようとする癖があることです。もちろんこの優しさ自体は伏見臣の長所ですし、この意識が旗揚げ公演を成功に導いたのは紛れもない事実です。ただ、芝居をするうえでは自分を後回しにする性格が邪魔になってしまうこともあるというのです。
「役割」を演じることと「役」を演じることは、似ていますが少し違います。役割を演じるだけなら、他人が求めるものを受け取り続ければ上手くいくでしょう。ですが、役を演じるためには、何よりも、自分をさらけ出すことが必要です。「ピカレスク」の「ポートレイト」で、一旦はこの問題を精算したものの、周りに適応して役割を演じることが上手かった伏見臣には、さらなる解決法が必要でした。
いきなり主演に指名された伏見臣があてがわれた役は、荒廃した未来の地球で、世界を憎みながら旅をする荒くれ者・ウォードでした。この役どころは、まさに伏見臣の課題を解決するにふさわしい人物と言えるでしょう。荒っぽいところは暴走族時代を想起させながらも、他人のことをまるで考えない自分勝手さは当時の伏見臣に足りないものでした。
また、「俺は、死にたがる奴が殺したくなるほど嫌いなんだ」という台詞は、ゼロだけでなく伏見臣自身にも向けられていると思われます。那智を亡くした直後の伏見臣は、たった一人で弔い合戦に行きました。単に復讐をしたいだけなら、人数をそろえたほうが確実に目的を果たせるはずです。それでも伏見臣がその選択をしなかったのは、那智が亡くなったことで生きる意義を感じられなくなり、あわよくば自分も、という思いがあったのかもしれません。
ポートレイトで伏見臣は、「何の夢もなく、ただ無為に日々を過ごす自分が生き残って、未来に夢も希望も持っていた那智が死んでしまった。」と述べます。この台詞は、生きることに罪悪感すら覚えていた伏見臣への叱咤激励でもあるのです。
さらに言えば、ゼロは、新しく出会った大切な存在、つまり、秋組やMANKAIカンパニーを示唆しているとも読めそうです。一見ハッピーエンドかのように見える筋書きですが、依然として世界は荒れ果て続け、二人が長く生きられる保証もありません。それでも、一握りの大切なものを抱えながら自分のために生きて良いのだ、という割り切りがありつつ、役者として成長途中であることをも暗示するような結末になっています。
那智との楽しかった思い出をも後悔で覆い隠してしまっていた伏見臣は、秋組のメンバー達に支えられたことで考えを変え、役名をヴォルフに変更したいと初めてわがままを言います。公演曲のタイトルは「Just For Myself」、「ただ自分のために」。「異邦人」公演は、伏見臣の行動軸に、「他人」だけでなく、「自分」が加わった大きなきっかけです。
秋組第3~6回公演
「異邦人」以降役者として成長した伏見臣は、さらに幅広い役を経験していきます。第三回公演「任侠伝・流れ者銀二」ではまたもやヒールの横田を、第四回公演「DEAD/UNDEAD」ではヒールでありながら最後に主人公に情を見せるレッドを演じました。第五回公演「燃えよ饅頭拳!」では一転し、面倒見のいい兄貴肌、ハンを演じました。こうして見ると、少しずつ現在の伏見臣の印象に近づいていっているように思えますね。
第六回公演「Fallen Blood」では、人なつっこい有名格闘家・ヒューイとして、主役の十座を支えました。余談ですが、このヒューイ、どことなく那智に似ていませんか? 人に構いたがる性格は伏見臣にも似ていますが、このあっけらかんとした雰囲気や、しつこいのになぜか目が離せなくなるところは、むしろ那智に近い気がしています。那智によく似た十座が座長を務めているのもあって、あながち間違いではないとも思います。
「異世界歓迎! 元ヤン食堂」
主演が一巡したあと、なんと伏見臣は真っ先に二度目の主演を買って出ました。「那智の命日が近いんだ」とのことですが、この積極性だけでも、前回からの進歩が手に取るようにわかるはずです。
そんな伏見臣が演じることになったのは、料理上手の元ヤン、近藤陸でした。言わずもがな、伏見臣と重なる部分が極めて多い役です。自分より他人を優先することの多かった伏見臣にしてみれば、自分をさらけ出さなくてはいけないこのような役は、かえって今まで演じるのが難しかったのかもしれません。
この公演でのポイントは、「人のため」という意識の捉え直しにあると考えています。脚本家であり、伏見臣をMANKAIカンパニーに誘った張本人でもある皆木綴は、出会った当時の伏見臣について、「誰にでも分け隔てなく優しいんだけど、周りと絶妙に距離をとってるような感じ」と話しました。ヴォルフを失ったことで、人と繋がることに恐怖心が芽生えていたのかもしれません。
しかし、演劇の楽しさや仲間の素晴らしさに気づき、カンパニーのメンバーと距離を縮めていきます。さらに、多くの仲間に料理を振る舞うことなどを通して、惜しみなく愛情を伝え続けました。伏見臣にとって相手のためを思うことは、単なる自己犠牲ではなく、自分のためでもあったのです。「異邦人」で、自分のために生きることを学んだからこそ、このことに気づけたのでしょう。脚本では、この過程が丁寧に描写されています。
陸は太一の希望通り、メインキャラクター全員と味方同士になり、物語は大団円を迎えます。とはいえ兵士のクラウスたちは、いつこちらの世界に来られなくなるかわかりません。だからこそ、今この瞬間を大切にしようという思いが伝わってきます。那智が亡くなり人と深く関わることを無意識に避けていた伏見臣は、新たに出会ったMANKAIカンパニーの仲間のため、たとえ永遠ではなくても大切な居場所を作り続けるのです。
最後に
最後に、伏見臣の主演公演を比較してみましょう。伏見臣の主演公演には、どちらもタイトルに、「異」、「異なる」という字が入っています。伏見臣が、他人と異なる存在である自分のことを肯定し、かつ異なる性質を持った他人を対等に受け入れる、ということができるようになる過程がわかるでしょう。そしてこれらの公演を通し、伏見臣は、他人のために行動すること、求められた役を演じることなどを見つめ直しているのです。
結論はこちら。
元ヤン食堂、フルボイス欲しい!
ご清聴ありがとうございました。では、この話を踏まえ、もう一度この曲を聴いてみましょう。
~Just For MYBABY~